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こぼれ話

 

神の国のパーティー


 
 

 毎月の初めにブラジル人とペルー人の子どもたちに初聖体の準備のお話をしています。日本語ができるから大丈夫、と言われて始めたのですが、日本の小学校に通っていても、彼らの祈りや典礼の言葉はポルトガル語やスペイン語なんですね。ですから、私も外国語の典礼用語を学ばなければいけない破目になりました。それで、ラテンアメリカ人の子どもたちはパーティーが大好きなので、「ミサはパーティー」だというお話をしました。

  イエスさまご自身が、神の国のことを宴会、つまりパーティーにたとえて話されていますが、神の国のパーティーを、この世において最もよく表しているのがミサであるといえるでしょう。招待者はキリストです。私たちは「ミサに来てください」というキリストの呼びかけに応えてプレゼントを持って集まります。プレゼントの中身は私たちの心です。毎日の生活で体験した喜びや悲しみの心を持っていきます。まず招待者であるキリストのお話を聞きます。聖書朗読ですね。先ほどのプレゼントは奉納としてパンとぶどう酒とともに神さまにおささげします。そして、パーティーの中心である食事の準備をし、聖体拝領で食事をいただきます。そして、私たちは祝福の恵みをおみやげとしていただいて帰ります。それは、パーティーに来られなかった人に分けてあげるためです。

  ときどき、信者の方から、「義務だからミサに行きます」という言葉を聞きます。たしかにそうですが、パーティーに招待した人に「義務だから来ました」と言われるとさびしいですね。キリストも同じだと思います。子どもたちに「パーティーに行くのはどんな気持ち?」と聞いたら、「嬉しい」「楽しみ」と答えてくれました。ミサに行くのがおっくうなときや、神父の話が退屈なときもありますが、呼んでくださったキリストに出会うために、喜びをもって行きましょう。

  お話のあと、子どもたちに「今日はパーティーあるの?」と聞かれたので、「ミサがパーティーやと教えたやんか」と答えたのですが、その日はブラジル人の方々が食事を用意してくださっていました。ミサのあともパーティーがあってよかったね、みんな。

 

 

2012年11月1日(木)A.Y

 


 

マリア様は、何人(なにじん)?


 
 

 御聖体の祝日に向けて初聖体の準備をしている子どもたちも多いことと思います。以前お手伝いをしていた教会でのほほえましい出来事です。

 

 初聖体準備の勉強が終わると、子どもたちは、マリア様の御像の前で、マリア様への祈りをしてから家に帰ります。ところが、その日は、お祈りではなくて、何やら言い合いをしていました。何を言い合っているのか、後ろから聞いてみました。子どもたちは、ダブルの子が4人、ベトナム人が4人です。

 

A:「マリア様は、天国にいるんだから、天国人だよ。」

B:「違うよ。天国人なんていないよ。僕のママは、マリア様のお友達で、ママ たちがみんなで、昨日もロザリオのお祈りをしたんだから、マリア様は フィリピン人だよ。」(B君の母親は、フィリピン人です。各家にマリア様の御像をまわして、ロザリオを祈る習慣があり、ちょうど、昨日は、彼の家があたっていたのです。)

C:「そう?でも、マリア様は色が白いから、フランス人だよ。」(Cちゃんは、以前この教会のお手伝いをしていたフランス人の神父様のことを思い出しているようです。)

D:「ベトナム人に決まってるよ。だってベトナムのおばあちゃんが、マリア様 を送って来たもん。」(D君は、会ったことのないベトナムの祖母から送られたマリア様の御像 をとても大切にしているのです。)  

 

 かんかんがくがく言い合っていましたが、マリア様は、「みんなのお母さん」だから、「何人(なにじん)でもない」ということで話がまとまりました。あんなに興奮して言い合っていたのが、「みんなのお母さん」という一言で納得し、仲良く「恵みあふれる聖マリア・・・」とお祈りを始めました。

 

  子どもですから、「何人(なにじん)でもない」という表現になったのだと思いますが、マリア様がお母さんだということに気づいたとき、つまり自分とマリア様との関係性がはっきりわかった時、「何人(なにじん)であるか」が、問題にならなくなったようです。

 

  現在、日本には、世界中の色々な国籍の方が住んでおられますが、それらの方々との出会いにも、同じことが言えるのかもしれません。人間的に出会い、関係性を作り上げられるとき、もう国籍や民族の違いは、問題ではないでしょう。一人一人との出会いを大切にしていきたいものです。

 

 

2010年3月24日(水)N.H


多食文化共生!?


 
 

 最近教会の中でよく「多文化共生」と言う言葉を耳にするようになってきました。外国の隣人をたくさんお迎えして、教会のミサも、色々な意味で、多文化になり、豊かになってきました。

 しかし、必ずしも、日本人の信者さん皆が手放しに喜んでいる教会ばかりではありません。

 北関東のある小さな教会では、主日のミサは、日本人と外国籍の信者の割合は1:2くらい、クリスマスや復活祭ともなると「ここはフィリピンかしら?ベトナムかしら?」という感じです。にぎやかに歌を歌ったり、聖堂をきれいに飾ったり、とても熱心に教会に奉仕してくれるので、外国籍の信者さんが増えて、教会が若返り元気になりました。でも、中には、「日本の教会なのに」とか、「騒々しくて祈れない」などの苦情もちらほら聞こえてきます。

 先日、その教会で、バザーが開催されました。幼稚園との共催で、来訪者も多く、とてもにぎやかでした。目玉商品は「インターナショナル・フード」ということで、ベトナム・フィリピン・韓国・イラン・ブラジルなどのお料理です。

  外国籍の信者さん、またいつもは教会に足を踏み入れない日本人のご主人も手伝いに来てくださいました。また、信者さんのお友達のイスラム教のイラン人の方もシシカバブを売っています。お天気にも恵まれ、売り上げも上々でした。

 このときばかりは、国籍の区別もなく、おいしいものを食べ、にこにこと食べ物の分かち合いをしていました。フィリピンの歌は騒々しいとか、ベトナムの飾りはにぎやか過ぎるなどと文句を言っていた人も、色々なお料理を食べて、「こんな田舎にいて、世界中のものが食べられるのは幸せ」と大喜びです。

 そんな姿を見て、あまりに単純かもしれませんが、お互いを受け入れるためには、まず、食事を共にすることから始めたらうまくいくかもしれないという気がしてきました。お互いを理解しあうために、日本人も、他国籍の人も、一緒に食事をして、楽しい時を共有したら、まず、第一歩が踏み出せるかもしれません。多文化共生の第一歩は、「多食文化共生」ではないでしょうか。

 「主の食卓」であるミサも、実際に「食卓」を囲んで、お互いの食文化の豊かさを味わったら、「主の食卓」の味わい方の豊かさを以前よりは、理解できるようになるかもしれません。「ミサ」こそ、世界中の人々が、集まる「食卓」なのですから。

 

2009年6月24日(水)N.H


 

神の民の集い


教会:ekklesia
 

 私たちは「共同体」に何を求めるでしょうか。それは、他者との一体感、あるいは自分が受け入れられているという感じや、家庭にいるようなくつろぎの体験かもしれません。そこに集まる人々が互いに支えあい、励ましあうことが期待されます。そして、私たちは家庭をはじめ、誰もがそうした「共同体」を持っており、その中で安全に、安心して生きています。  ところがキリストは、私たちが日頃から慣れ親しみ、安住している、こうした共同体から離れるように呼びかけます。
  「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(ルカ9:60)。
  「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(同62)。
  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(同14:26)。
  「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(同18:22)。
 キリストのこのような呼びかけは、私たちをどこに招こうとするのでしょうか。それは、日常的な安住の場から離れることによって、私たち一人ひとりに自分の真実の有り様を体験させるためではないでしょうか。私たちは誰でも、神への道を辿る巡礼者であり、例外なく神の恵みを必要とする罪人です。他のすべての人々と同様に、根本的に不安定な状態の中で生きているのです。  教会を意味するギリシア語ekklesiaは、ek(外へ)という言葉とkale(呼ぶ)という言葉からできており、神の民の集いである私たちが、日常的に慣れ親しんだ場所から外へと呼び出されていることを指しています。そして、そこでこそ、私たちは神のみ前での真実の自分と出会い、小さく弱い存在としての自分を体験するのです。  教会の本質ともいえる「外へ」の「招き」は、人間同士が、お互いに似たような欠乏や葛藤をもつ者として理解し合い、共通の弱さを持つものとして出会うことを可能にします。そして、以前には感じられなかったものを他者と共に感じられるようにし、以前には聞けなかったものを他者と共に聞けるようにします。  自分と他者を区別して、自らの内に安住してしまうのでなく、他者と同じ立場に立てるように、特別な世界に身を置くのではなく、どんな場所にも身を置けるように、今こそ、私たちの教会は「外」の向かって「呼ばれて」いる集いであることを思い起こしたいものです。


2006年4月3日(月)K.K


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