【各地の取り組み~国籍を越えた神の国をめざして】
仙台教区大船渡教会(岩手県)編

今年、東日本大震災の発災から丸10年を迎えます。
被災地の教会は3.11を経てどのように歩み、今後を見据えているのでしょうか。岩手県にあるカトリック大船渡教会(仙台教区)の菅原圭一さん、大河内愛さん、菅原エルバさんにお話を伺いました。

【震災前の大船渡教会】
もともと、日本人の信者数は名簿上100名くらい、日曜日のミサには20~25名ほどが集まる小さな教会でした。そして、信者さんの高齢化がすすんでいます。(どこの教会も一緒だと思いますが・・)。
震災前は、たまーに外国人が1人、2人いらっしゃる程度。大船渡は港町なので、フィリピンから、材木を運ぶ船が入ってきたりすると、船員の方が教会を見つけていらしたり、あとは、町のお酒を出す店で働いていらっしゃる方とか・・。英語のミサのある時には、日本人と結婚しているフィリピン人の女性も、お友達を連れていらっしゃることがありました。とはいえ、ほとんどは日本人の高齢の信徒でした。外国人の方がミサにいらしても、「英語しゃべれないし・・」と怖がるばかりで、話かけることもなかったです。

【3.11の後・・・】
2011年の東日本大震災では、大船渡教会の信者さんも5人、津波で亡くなられました。教会の下にあった納骨堂のご遺骨も、すっかり流されてしまいました。
震災の後、イエスの小さい兄弟会の塩田希神父が、和歌山から大船渡教会に応援にきてくれました。
震災の2週間後くらいから、塩田神父司式のミサがはじまったけれども、そこに何人か、フィリピン出身の方がきていました。塩田神父はその人たちに「もっといるんじゃないですか?」と尋ねたのです。その答えは・・「実はいるんです。でも、日本人男性のところに嫁いでいるので、舅、舅姑、夫、子どもたちをおいて、自分だけミサに参加することが難しいのです」ということでした。そして彼女たちは、どこにカトリック教会があるのか、さえ、分からない状態だったようです。
その話を聞いて、塩田神父と車を運転する信徒が一緒に、避難所や仮設住宅、被災したお宅をまわって、フィリピン出身の方を探しました。
そして陸前高田にある避難所の玄関で、そこにいた方に「フィリピン出身の方を探しています。こちらにいらっしゃいますか?」と尋ねたら、「いますよ」ということで、すぐに連れてきてくれました。その方が、発見第一号(笑)の村上サリーさん、でした。サリーさんも、それまでは教会にいらしてなかった方だけれど、「何人もいますよ」ということで、フィリピン出身の方がいらっしゃる場所を教えてくれました。

サリーさんが教えてくれた場所を歩いてまわりながら、塩田神父は「教会にくれば、仲間(フィリピン出身の)がいますよ。仙台教区では、被災された方に義援金を出しています。それから、教会には世界中から救援物資が集まっています。それらを、あなたがたに差し上げたい。だから教会に行きましょう」と、声をかけてまわった。そこから、どんどんじわじわと人が集まってきたのです。

最初は遠慮して、遠巻きにミサを見ている感じだったけれど、5月末にCTIC(カトリック東京国際センター)から、フィリピン人の司祭とシスターが来てくれて、ミサをすることになりました。当日は午前中が通常の日本語ミサ、午後1時30分からタガログ語のミサだったのですが・・信者でない日本人夫がフィリピン出身の妻を車に乗せて、続々と大船渡教会にやってきて・・びっくりするくらいの人が集まりました。妻たちはお聖堂でミサに与り、夫たちは皆、窓から中をのぞきこんでいました。タガログ語のミサがあると知って、一関とか・・被災していない地区のフィリピン出身者も来ていました。

大船渡教会に集まりはじめた、フィリピン出身のみなさん(2012年)

皆さん、母国を離れて日本に来て20数年が経って・・お祈りとか聖歌を忘れてしまった、という方も多かったのです。それでミサの前に、タガログ語の歌とお祈りの練習を始めたんです。そうしたら皆さん、練習の間からお互いに抱き合って、涙を流していらっしゃいました。日本に長年住んで、家族もいるとはいえ、言葉も違う国であの震災を体験して・・皆さん、本当に心細かったと思います。目の前で、お姑さんが流されたという人もいたし、目の前で家が流された人もいました。そんな心細い中、教会で仲間たちと合うことができ、自分たちの言葉で祈ることができ、聖歌を歌うことができるという喜び、ミサの前からあふれ出ていました。そのミサをきっかけに、横のつながりができて、連絡を取り合うようになったのです。そして、大船渡教会にフィリピン出身の方が集まるようになったのです。

大船渡教会の教会委員会では、委員長の山浦玄嗣先生を中心に、「集まっている人たちを外国人扱いするのはやめよう」と話し合いました。せっかく気仙に嫁いできてくださったお嫁さんなのだから、「フィリピン人」とか「外国人」という呼び方をやめて、「フィリピン出身の方」と呼ぶことにしよう、と決めたのです。

その頃、森田直樹神父(京都教区)が、教会に来たフィリピン出身の方の名簿を作ってくださいました。すると・・・震災前は日本人が100名ほどだったのが、名簿にはフィリピン出身の方の名前が100名以上あったのです。つまり、震災をきっかけに信徒数が一気に2倍以上に増えた、日本で一番元気な教会、になりました。そして皆さんに、教会の役割を担ってもらおうということになりました。まず、タガログ語を話す人たちのグループ「PAGASA(タガログ語で希望)会」を立ち上げました。メンバー100名、子どもたちを含めるともっと多いのですが・・。そして、PAGASA会の大船渡代表2名と陸前高田代表2名の合計4名を教会委員会のメンバーとしました。

最初は、日本人と外国人の方々の間で「遠慮」がありました。例えば・・日本人のように礼儀正しくない・・とか(笑)、お聖堂に入るために脱いだ靴があちこちに散らばっている、だとか・・・・。それを見て、日本人は「フィリピンの人たちとは、お国が違うから仕方がない」と、話していたけれども、山浦先生が、「きっと言えばわかるはずだ」と言ったんです。

「みなさん、ちゃんと靴をそろえましょう」って言ったら、「はい、わかりました」って言って、きちっと揃えたんです。それで、言えばわかるんだ、という認識が浸透しました。あとは、ミサの後のお茶のみも、最初は日本人同士、フィリピン出身者同士で話し、交わることがなかったんだけれど、時間をかけていくうちにお互いの名前を覚え、交流するようになり・・クリスマス会でも、これまでは高齢の信徒が日本舞踊やります、手品やりますくらいだったんだけど、フィリピンの人たちがものすごい踊りとかで、めちゃくちゃ盛りあげてくれました。パーティーも日本人ならば、神父様のご挨拶からはじまって、信徒会長のご挨拶、そして乾杯とやってきたんだけれど、フィリピンの人たちは集まるとすぐ「食べていい?」となります。その時に、「いやいや、日本ではそうじゃないんだよ・・」などと声をかけ、そういう経験を繰り返しながら時間をかけて、お互いに歩みよることを学んでいきました。

▲2013年クリスマスのパーティ

最初は、フィリピンのみなさんの嫁ぎ先家族も、「うちの嫁はどこに行くのだろう・・」と思っていたみたいです。でも「行きたい」と熱望され、「じゃあ、行ってきなよ」となった。フィリピン出身のみなさんは教会に来ると、仲間と会って、話せるので、嬉しくなる。しかも、救援物資まで持って帰る・・当時、「うちの嫁は“教会”というところに行くと、機嫌がよくなって、しかもおみやげまでもらってくる」と、話題になっていました。お母さんが明るい家庭は明るいですもんね。そうなると今度は、ミサの時、家族が車で送ってくれるようになりました。時々ミサに出席する家族や、カリタスベースに遊びにくるおばあちゃんとか・・・出てきましたね。地域で、教会に対する理解も広がったのではないか、と思います。

大船渡教会の菅原エルバさんにも、お話を伺いました。
フィリピン出身のエルバさんは結婚を機に、1988年に大船渡にいらっしゃいました。当時からカトリック教会の存在は知っていて、時々一人で祈っていらした。でも、ミサがいつあるのか、どんな人がいるのかなど詳しいことは何も知らなかった、と話してくださいました。

2011年3月11日は、出産育児を経てお仕事もされていたエルバさん。自分の家族がいるとはいえ、異国で経験する大地震と津波、地震後の混乱はどれだけ不安だったか・・想像を絶します。震災後、家族とともに避難所にいたときに一人の神父に会い、他のフィリピン人友人とともに教会に集まるようになったそうです。その後、PAGASA会の結成へとつながっていくのですが・・・この時の気持ちをエルバさんは「たくさんの人が亡くなった。目の前で姑さんが津波に流された友人もいる。仕事もなくなって、これからどうなるのか不安だった・・そんな時に仲間と会えて、話せて、一緒に祈って励ましあえたことが、嬉しかった。」と、教えてくださいました。

菅原エルバさん(中央)

大船渡教会では、ミサの中での主の祈りを日本語で唱え、タガログ語で唱え、そして今ではベトナム語と3か国語で唱えています。今はコロナ禍で歌えないけれど、3ヵ国語で歌っていました。

【その後】
そういう風に震災後2、3年は、すごく盛り上がってきました。ところが・・・・仙台教区の地区制の導入で、担当司祭が日本人だけになってしまったのです。また、その頃に(震災後の状況が落ち着いてきて)仕事が始まったこともあり、フィリピン出身の方が、日曜日が休みではない仕事に就き、だんだんミサに参加しなくなりました。
フィリピンには「ブロック(地区)ロザリオ」という習慣があるみたいで、そちらに参加して、ミサにはこないことが続きました。

▲各家庭をまわってロザリオを唱える、ブロックロザリオ

その後の地区の編成替えで、大船渡教会はフィリピンの神父様がお二人いる地区になりました。するとまた、フィリピン出身のみなさんがミサに戻ってきたのです。今は月に2回、フィリピンの神父様が来てくれています。その時にはなんとなく、フィリピン出身の信者さんが多いかな、というくらいです。特にタガログ語のミサをするわけではありません。日本人も外国籍の信徒もみな、一緒にミサにあずかっています。ミサの言語をわけると、みんなそれぞれの言語のミサに行くでしょう。委員長の山浦先生が掲げたのはとにかく、「われわれはひとつなんだ」という点。フィリピンから来た人たちだって、この後、ずっと日本で暮らしていくのだから、どうしても日本の文化や日本語に慣れなればならないのだから・・・。

【いま】
最近では、フィリピン出身の方に加えてベトナムの若者が増えてきました。フィリピンの方はほとんどが日本人男性と結婚した人たちで、ベトナムの子たちは若い技能実習生です。彼/彼女らは3年いるといなくなります。でも、教会活動にもしっかり参加してくれています。先日も、高齢化した日本人の信徒に代わって、教会の掃除(枯れ葉拾いと窓ふき)を、一生懸命やってくれました。日本語が上手な人は、聖書朗読も率先して担ってくれています。

▲敬老の日のお祝い。青年たちは、大船渡で働くベトナムの子たち(2019年)

大船渡には、ベトナムの女の子たちが40人くらい、共同生活をしながら働いている会社(鶏肉を扱っている)があります。以前、その会社に勤めるカトリック信者の人たちが歩き回って教会を探したそうです。大船渡にはプロテスタントの教会も多くあり、大変な思いをしてたどり着いた、と聞いています。その時から、信徒のYさんがベトナムの子たちのお世話を親身になってしてくださるようになりました。会社の寮に行ってお話を聞いたり、ご自身の家に招いてご飯を食べさせたり・・日本語検定を受ける子たちに日本語も教えていました。彼女たちの労働環境は厳しく、労働時間が長いなど不当な目にもあっているようで・・Yさんは、せっかく日本にきたのだから、日本の良さを知らないままベトナムに帰らせたくないともおっしゃっていました。 Yさんによると、彼女たちが自分の20代のころの感性と似ている、と感じているそうです。例えば、家族を大事にしているところ、道徳観、つつましやかさなど・・・日本の教会で受け入れてあげたい、という思いもあるけれど、何よりも彼女たちの生き様に共感した、ということが大きいようです。

大船渡はもともと港町で、外国人との接点はあったことも大きいけれど、震災後教会にフィリピン出身の方が増えて行ったという経験が、ベトナム出身の子たちの受け入れにも活かされていると感じます。

大船渡教会の高齢化はすすんでいて、ここ最近、といっても30年くらい初聖体を受ける子はいませんでした。でも2020年、フィリピン出身のお母さんの子どもたちが8人、初聖体を授かりました。

いまの課題は・・「初聖体がゴール」になっていることです。初聖体のあと、子どもたちとその家族が教会に来なくなることは、大きな課題です。日本に住んでいると、部活動があったり、習い事があったり・・・これは、日本中どこにでもある問題かもしれません。それから「教会維持費」のことも課題ですね。実は、フィリピンに維持費という考え方はなく、お祝いの時など節目に献金をする、という習慣だそうです。日本で教会を存続させるために必要な「維持費」について、いろいろな方法で伝えていこうとしています。

編集後記:
3.11の前と後で教会をとりまく状況が大きく変化したこと、手探りの中で信徒のみなさんが模索し、歩みを進めてこられたことがよくわかりました。大河内さんが「過疎化とか、高齢化とか・・・日本のどこにでもある問題が、大船渡は、2011年に被災したことによってより加速化したと言えると思います。」と話してくださったことがとても印象的でした。

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1992年、日本カトリック司教協議会社会司教委員会は「国籍を越えた神の国をめざして」というメッセージを発表しました(2016年改訂)。当時、日本には外国人移住者が増えつつあった時期で、教会にも多くの外国籍信徒が訪ねるようになりました。日本人の信者は同じ信仰を持つ仲間が増えることを喜ぶ一方で、異文化の受け入れにとまどいを感じていました。そのような状況の中でメッセージが発表され、日本の教会が難民移住移動者を友として受け入れ、その思いに寄り添うように呼びかけたのです。
それから25年以上がたち、外国人の置かれている状況は大きく変わってきました。国際結婚などで定住する人が増え、移住者の世代交代もすすむ中でリーマンショックが起こり、多くの人が帰国するという時もありました。近年は、政府が日本の労働力不足を補うため、外国人の受け入れ拡大の方針へ大きくかじを切ったこともあり、ベトナムやミャンマー等の若者が「技能実習生」として、日本各地で働いています。
日本の信徒が高齢化する中、ミサに参加するのはベトナムや、その他外国籍の若者たちが中心となっている教会も多いのではないでしょうか。それぞれの共同体における「国籍を越えた神の国」の実現を考えるきっかけにしていただきたいと思い、こちらのコーナーでは、全国の教会の「いま」とその取り組みについてお伝えしていきます。